序
香川県でゲーム、ひいてはネットを排除しようという公的な運動が話題である。 工作による賛成の水増し、反対の封じ込めといったこともあり、私利私欲のために法を操作しようという衝撃的な事態になっている。
これに関連してはいるのだが、ここでは「ゲーム」について述べる。 主にゲームにあまり縁のなかった高年層向けの記事である(ゲームに救われ、育まれてきた世代であればそのようなことは述べないだろうからだ)が、実はMimir Yokohamaでも多い相談はネットに対する不安よりもゲームに対する不安だったりするので、そこらへんへのアンサーでもある。
なお、これは「ゲームは素晴らしい」という礼賛記事ではない。 ゲームについて正しく認識するための記事である。
また、ここでは「ゲームという言葉がビデオゲーム全般を指している」という前提で話を進めるが、言及としてはボードゲームや知的ゲームなどを含んだものとする。
また、この記事は私の主研究内容からフィードバックしたものである。
機能的効果について
まず、脳という意味でいえば、テレビを観ているときは脳はほとんど使われていない、という研究結果があるのだが、ゲームをしているときは活発に動いていることがわかっている。
まぁ、これについてはもう少し考えるべきことはある。 例えばゲームのプレイ動画を観ているという状況は恐らくテレビと同じだろうし、ソシャゲのオート周回なんかは画面を観なくても条件反射だけでできたりするから、脳を使わなくてもできるかもしれない。
ゲームによって得られる機能的効果は非常に大きい。これは、ゲームのゲーム性の多様さがそのまま効いてくる。
戦略性が必要なもの、知識量が必要なもの、タイミングが重要なもの、読みが必要なもの、瞬発力が必要なもの、観察が必要なもの、運が必要なものなど非常に様々なゲーム性があり、ゲームなしには経験・体得できないようなものもたくさんある。 それらはいずれも実生活においても非常に有効な体験だ。
私としてはドラムマニアはドラムを習得する上で結構な影響があったと考えている。 お互い悪影響を及ぼしてしまうような要素もあるが、ドラムマニアをやっていたらドラムでできるようになったこと、ドラムで練習していたらドラムマニアでできるようになったことなども多い。
また、DDRは現存するゲームにおける最強の運動である。 世界大会に至っては「世界陸上」などという比喩がされるほど激しい身体的なゲームであり、私は(非常に低レベルながら)パフォ勢にあたるのだが、普通のプレイではLv.13までクリア可能で、パフォーマンスプレイではLv.11が限度。そして、普通にプレイする分にはLv.11はちょっと息が上がる程度だが、パフォーマンスプレイではLv.11でやると最後まで立っているのが難しい。 最高難易度であるLv.19に至っては、もはや人間の限界に挑むような体の動きを要求される。
つまり、ゲームの種類によって頭脳に限らず、極めて幅広い能力を鍛える必要があり、なおかつその体験が社会生活においても様々な場面で生きてくる。
学習的効果について
最も明確な効果があるのは歴史・地理に関するものである。 史実に基づく歴史・地理を扱うゲームでは、その学習で大人になっても染み付いているという人は多い。 あいにく私はその手のゲームが好きではないので全くだが。
私の場合は、未就学児にしてひらがなカタカナの読み書き、アルファベットの読み書き、大きな桁の足し算引き算ができたこと、そして初めての土地で複雑な場所でも迷わない空間認識能力を身に着けていたことは明らかにゲームのおかげだし、英語の習得にも英語が不可欠であった。
さらには、プログラミングを学習するのもあくまでゲームがあったからであるし、日本語を学ぶ上でも限定的ではあるがかなり役立った。世代的にあまりむずかしい漢字が出てくることはなかったので漢字学習には活かされていないが、言い回しや単語などでは活用された。
だが、学習効果に関しては他のメディア、コンテンツと比べると限定的であるように思う。 こんなにも優れた学習効果があるからゲームはいいものだ、とはちょっと言いにくい。 他にないほどのメリットが得られる機能的効果と比べると雲泥の差だ。
体験的効果について
ゲームの体験というのは、他ではかなり特殊な状況でなければ発生しないようなものが多く、「日常生活と同じレベルの覚悟ではゲームなんかできない」という主張も普通に成り立つ。
特に高スコアを狙っているとき、ライバルと競っているときの緊張やプレッシャーに負けない集中力、努力に努力を重ねて限界の状態からあと一歩を引き出すためのトライなどはスポーツなどでも相当なレベルに達しなければ経験することはないし、それもそんなに頻度の高いものではないが、ゲームなら割と日常的に発生しうる。
オンライン対戦型だとより厳しい。私はあまりゲームで追い込むタイプではないので、とてもじゃないけどできない。
こうした経験は、苦境や逆境において「ゲームであれほど辛かった」「あのときはあんなにがんばった」という体験として力になることもあるし、困難に打ちひしがれたときにそれを打開するための成功体験として残ることもある。
本気でゲームをしたことがない人は、こうした限界の経験の多様さにおいてどうしてもディスアドバンテージを負うことになる。 ゲームを本気でやることは、スポーツなどコンペティショナルなことを本気でやるのと同等以上に良いことだ。
また、感情的な揺さぶりの大きいゲームというのもあるが、こうしたゲームはオフラインのものだと揺さぶられて感情が耐えきれなくなったような状況で、誰かにぶつけることもできず自分の中で感情を整理して落ち着ける、というようなことが必要になる。 もちろん、ここで誰かにあたったり、ネットに書き散らしたりしたら台無しだが、安定した情緒の獲得と共に、非常にショッキングな状況への耐性を身につける上でも非常に大きな体験となるだろう。
もっとも、そのような耐性がないうちはそれに振り回されることもあるだろうが、そういう体験は子供のうちにしておいたほうが良いものだ。
時間について
ゲームをしない人にはピンとこないかもしれないが、主観的にはあくまで体感上の プレイ時間 であって、実時間というのはプレイ上の満足度とは 関係ない 。
例えば、初代プレイステーションの頃などはロード時間の割合が50%を越えるようなものもあり、そうすると1時間のプレイ時間で、実際に触っている時間は30分に満たず、それ以外は「待っているだけ」である。
さて、あなたは「ただ待たされている」という時間を有意義なコンテンツ時間として扱われることに納得できるだろうか? 例えば、2時間のライブのチケットで入場したが、1時間50分ほどただ座って待っていて、1曲やって終わりでした、で、「2時間満喫した」となるだろうか?
さらに進行の問題もある。 例えば、レースゲームのグランツーリスモシリーズには連続で24時間ものプレイを強要される非常にきついコンテンツがあり、これを途中でやめてしまったらそこまでの数時間は無駄になり、いつまでたってもクリアできない。 これは、自分がしようとしていることを力によってやめさせられるという体験になり、後々になっても恨みを買ったり、歪みを生じるような体験になってしまうだろう。
また、人にもよるのだが、小説を読むときに中途半端なところで終わることに耐えられないという人は多い。 これは先が気になるということもあるのだが、それ以上に「中途半端な状態でやめると、物語を読んでいたときに感じていた感情から突然切り離されることになり、非常に不快で、かつ現実世界に戻りにくい上に、再度読み始めるときもどのようなお話であり、どのような感情で読んでいたかということに復帰できない」ということで、小説という体験そのものを損なってしまう。 これと同じことで、ストーリー性のある作品の場合、ストーリーの途中でやめさせられるのは非常に不快である可能性が高い。
だが、実時間の消費という意味ではデメリットも大きい。
単純に余暇時間という点で見ればゲームは時間効率がよく、短時間でもやめやすいものだ。 バイクか趣味だとかなると、まぁ私はフル装備を装着するのに30分、ガレージまで1時間、みたいな感じだったので、トータル3時間を準備時間(帰りもあるから)に費やし、コンテンツ時間もそんなにいきなりやめるわけにはいかないから、「ちょっと走ってくる」といっても5時間は必要だし、釣りやサーフィンなどどこかに出かけなければ成立しないような趣味だともっと自由は利きにくい。 スキーなんかその意味では時間効率はすごく悪い。
だが、気軽に始められるためにダラダラと時間を消費しやすい傾向があり、消費時間とコンテンツ時間にギャップが生じやすいものなので、「意図せず時間を消費する」という傾向がある。
最悪なのは、ソシャゲでスタミナを消費した後にさらに時間を費やしてしまう、といったことだ。 スタミナを消費した時点でプレイすることができず、なおかつスタミナは時間経過によって回復するが、この状態ではプレイできないし、スタミナが回復するまで違うことをしていればいい。ところが、なんとなくソシャゲを触りながら待ってしまって、時間を浪費してしまうということである。
だが、このような時間浪費はゲーム固有というわけではない。 ネットサーフィンやSNSなども有意義とは到底いいづらい時間を消費してしまうことがあるし、布団の上でゴロゴロしていても発生する。 テレビやYouTubeを観ていても起りうるし、意図せず消費するという意味では料理や掃除もだらだらやっていると恐ろしい時間を消費してしまう。私の中で最も危険なのは(これもゲームだが)将棋で、気がつくと10時間くらい指していたりする。ビデオゲームの特定タイトルをやる場合は、何をするか決めてやっているし、その日にどれほど時間を使うかという意識を持ってやっているから良いのだが、将棋は「いつの間にか」という感じなので私の場合とても危険だ。
ゲーム時間の付き合い方としては、計画的であることが望ましい。 つまり、時間による制限ではなく、目標と目安による制限だ。
私がこの点で参考になると考えているのは、VTuberの静凛さんのプレイである。 最初の段階で「今日は〇〇まで進めます」「今日は〇〇します」「今日はだいたい○時くらいまでやるつもりです」というふうに述べ、だいたいその予定どおりに終了する。 そのときに許される時間と、自身の中でちょうど良い塩梅を見出して、それに合わせてプレイするというのは、なかなかうまいやり方だと思う。
休日の余暇における趣味としては、別に一日中ゲームしていたって構わないのだ。 だが、意図せずだらだらとゲームで時間を過ごしてしまうのは精神衛生上もよくない。
ここらへんはゲームは長い時間を費やせる分、うまい付き合い方が必要になるだろう。 そして、それはプレイ時間による制限ではないのは明らかである。
金銭について
比較的安上がりな趣味である。
私の過去のものも含めて趣味と比較すると
- 自転車: 初期投資30万円くらいで数年分、月間3万円くらい
- バイク: 初期投資150万円くらい(最初は免許にプラス30万円)で数年分、月間15万円くらい
- カメラ: 初期投資20万円くらいで数年分。月間数千円
- 空を見る: せいぜい月間2万円くらい。千円もいかないことが多い
- 将棋: 月間1.5万円くらい?
- コンピュータ: 初期投資60万円くらいで3年分、月間2.5万円くらい
- ドラム: 初期投資50万円くらいで4年分、月間1万円くらい
- ゲーム: PCとアミューズメント合わせて月間1.5万円くらい (月間4万円くらい使ってたこともある)
- カラオケ: 月間1万円くらい
趣味なんだからいいじゃん、適当な範囲で、と思ってしまう。
が、ソシャゲは割と危険な使い方ができる。 3000円から5000円の消費に10秒くらいしかかからないので、消費しようと思えばいくらでも消費できる。 このペースでお金を消費できる方法を私は他に知らない。
実際のところ、パッケージゲームで月間4万円も使うと、余暇時間の全てをゲームに費やしても積んでしまうので、ゲームは対時間のコスパが良すぎてそんなにお金使えない。 グッズとかを買えばまた話は別だけど、それは話自体が別だ。
生活について
生活への影響は、正直、規制派の言うことは的はずれであるにせよ、規制反対派が言うほどには小さくないと考えている。
私は学校へ行っていなかった人だし、特に中学生のときは学校に行かずにゲームするという明確な意思があった。 だが、これは別に「ゲームしたいがために行かなかった」わけではない。 別に学校に行けない理由があり、中学生にゲームをしていたのは、ゲームを通じて将来に役立てたいことが明確だったからだ。
だから、これはゲームの悪影響ではないのだが、一方でゲームが生活に影響した、というケースは私は割と経験している。
ゲームで目標が達成できず、どうしても悔しくて夜ふかししたとか、あとふと思い立って始めたゲームが割と楽しくて区切りがつかず夜ふかししてしまったとか。 あとはDDRに関しては、腰を怪我したり足を怪我したり、割と大事になっていたりする。腰をやったときは2週間ほど身動きがとれなかった。
とはいえ、それはゲームに限らず、割とそういうことになりうるものはたくさんある。 私の場合は寝不足はゲームよりは読書や調べもの、執筆のほうが危険だし、怪我という意味ではバイクとかテニスとか自転車のほうが大概ひどい。
とはいえ、誘惑が強いのは確かで、生活に影響をきたすことはあるだろう。
もっとも、子供の頃に抑圧されて、加減を知らないまま大人になって遊びに振り回されて社会生活で困るよりは、子供のうちにマネジメントを失敗しながら学ぶほうがずっと良いように思われる。
一方、ゲームが楽しすぎて社会生活に支障をきたす、というケースは現実に存在していて、ネットゲームで特に問題になりやすい。
とはいえ、ソシャゲだとそもそもそんなにプレイできないし、引きこもりの主原因とは考えられないだろう。 それが原因になる人がいないわけではないが、他の原因よりも著しく大きな原因であるということは考えられない。 そもそも最大の原因は社会生活が「嫌である」か「怖い」かがという要因が最も大きいし、そうでなくても他の楽しみよりも特段に発生しやすいということもないだろう。 それよりは創作にハマることで引きこもる人のほうが観測の限り明らかに多い。
人格形成について
これも、規制派の言うような主原因たりえないにせよ、反対派が言うほどには影響は小さくないと思う。
「戦闘ゲームをしたら暴力的になると言うならば、恋愛ゲームをしたら結婚できるとでもいうのか」という主張はなかなか面白いと思うが、それは一面としてある。
これは漫画だろうが、ドラマだろうが、映画だろうが、小説だろうが言えることだが、素敵な恋愛物語に触れて「自分も恋愛をしたい」と思うことが、誰かと交際しようというモチベーションになる可能性は普通にある。 そして、ゲームの場合はより体験的なものであるから、擬似的な恋愛経験でもあり、より明確にモチベーションになる可能性がある。
これは、その恋愛体験によって恋愛に寄って得られる感情の高まりや、相手のことを考えるという仮想行為によって恋愛における心の持ち方や振る舞い方を準備できるために、(別にゲームを模して行動するという意味ではなく)恋愛を成功させる要素を実体験なしに獲得する可能性もあり、単にモチベーションが上がるだけでなく、成功率を上げる側面もあるだろう。
だが、格闘ゲームが好きだが人を殴ったことのない人も、麻雀漫画が好きだが麻雀をやったことがない人も、痴漢ものAVが好きだが痴漢をしたりはしない人も当然にいるわけで、別に創作物上の行為が自身の願望を投影しているわけでもないし、主題として賛美されるわけではないという意味も含めてそのあたりは恋愛とは話が大きく異なってくる。
もちろん、暴力的な作品に感化されて暴力的になる人というのもまたいるだろうが、そういう人は「当人の暴力性が暴力的なコンテンツに感化されやすい」という事情によって生じるものなので、ゲームかどうかというのは関係がない。 この場合、暴力的な創作物一切から引き離したとしても、結局は社会にいる暴力的な言動をとる人に感化されることになるので有効ではない。
もちろん、主人公のようになりたい、というケースはある。 また、これとは別の話として主人公になりきりたいというケースもある。 これは、表面的に見れば人格形成に関わってくる。
ただ、このような「他者に感化されてそのようにあろうとする」というのは非常に難しいため、最終的には影響は限定的だ。 そして、これは歴史上の偉人に感化されたり、有名人に感化されたりするのと比べても一般的には弱い。
人格形成における善悪は明確な基準が存在しない(限定された社会的な悪や、道徳的な悪というのはなくはないが、それも非常に視野狭窄な話になる)ため、悪影響という言い方はしようがないのだが、ただひとつ言えるのは、「多くの創作物に触れることはその人がその人たろうとするために非常に大きく貢献する」ということである。
人は自身を第三者の存在なく主観的に自分がどのように定義されるかを知る方法がない。 これは、赤子や幼児が、快不快やその強さを識別することができたとしても、そのいずれが中核的なのか認識できないというのと同じ問題で、人は他者との相対で同一性や相違を認識することで境界を築き、自身の何たるかを認識する。ちなみに、この過程を自我の芽生えという。
この強度に影響するのが、どれだけ「YESかNOか」というサンプルがあるかだ。 創作物は非常に多くのキャラクターやストーリーに触れることができる。このキャラクターは好き、このキャラクターは嫌い、この言動は好き、この言動は嫌い、という感覚を繰り返すことで、自身がなんであるかということが明確に固まってくる。 大人でもこのあたりがちゃんと定まっておらず、際限なく(他者を侵害して)自分の領域を広げたり、まるで譲歩せず全てが臨み通りでならないと考えたり、というようなケースは非常に多く見られるものであり、境界を定めることは重要なことだと考えられる。
もちろん、先に述べたように、その自我が暴力的なものに共感するものであれば、暴力的なものの影響を受けて自分が暴力的に振る舞うことが適であるという認識になるために、外形的には創作物の影響で暴力的になったように見える。 だが、そのような影響はあっても一時的なものであるため、人格形成においてそのような影響を及ぼすものではない。
なお、暴力的な性質を持つ人が暴力的な人格にならないためにいかに是正すべきかという問題はとても難しいし、さらに言えばそもそも暴力的であることは悪かどうかということに至っては答の出しようがないレベルで難しいので、ここでは触れない。
いずれにせよ、人格形成をする上で、ストーリー性の創作物や、様々な体験に触れることは常にプラスであり、その結果どのような人格に固まるかということに関しては創作物のような要因に影響されるのは前提として障害が必要になるため、通常は案じる必要はない。 逆に、障害がある場合はゲームに限らず外部要因をどのように認識するかについては常に気を配る必要がある。
コミュニティ効果について
ゲームはコミュニケーション上とても大事だ。
私がゲーマーだった当時、割とマニアックなゲームばかりしていたこともあり、周りに同じゲームをしている人もいなくて、コミュニケーションツールにはなっていなかった。 だが、今となっては同世代とのコミュニケーションに不可欠な体験となっている。
私と同年代なら、間違いなくFF7の話をすれば何かしら一言ぐらいは引き出せるし、「僕にこの手を汚せというのか」というセリフ(タクティクスオウガというゲームのものだ)を言えば意図は通じる。 グランツーリスモはだいたいの人がやってるから車の話が通じる可能性も結構高いし、「泣かせるお話(だいたい主人公かヒロインが死ぬ)」の話も盛り上がる。
ものを教える身としては、オーソドックスなファンタジーRPGの世界観は絶対に履修してほしい。使える比喩がめちゃくちゃ増える。あと、オーソドックスなカードシステムのソシャゲもぜひやっていてほしい。 これらをしている、していないで説明に伴う苦労が全然違う。
つながりが薄い人を相手にするとき、共通のゲームの話題というのは、芸能人やTV番組の話題よりもずっと安全で、なおかつ盛り上がりやすいから、コミュニケーションのためにゲームをやるというのは普通に効果的だ。 それは今周りにいる人に限らず、将来の社会で同じ経験をした同世代の人とのコミュニケーションのためにもだ。
だから、ゲームの外側の世界、コミュニケーションという側面から見たときに効果が大きいのは間違いなく言える。
だが、これに関しては負の側面も大きい。
ゲームコミュニティ(特にネット上のもの)はかなり乱暴なものが多く、攻撃性が高い。 この場合、先に触れた「創作物のコンテンツとしての対象」ではなく、「自分がいる環境」になるために、この影響は人格形成への影響が否定できない。これは現実の自分への影響であること、関わりが自分の意思によって切り替えられないこと、そして双方向性があることなどが理由である。だから、コミュニティで攻撃性に触れ、それに負けないように自分もまた攻撃的に振る舞った結果、他者に対して攻撃的に振る舞う習性が身につく、ということは普通にある。 もちろん、攻撃されることで傷をおう可能性もある。
また、悪意のある人が少なくなく、現実的な危険に晒されるリスクも低くない。 これは、コミュニケーションツールとしての有効性を悪用した話である。
ゲームは禁止しなくても、そのゲームに関するコミュニティに参加することは禁止することは考えられるかもしれない。 それくらいには負の側面も大きい。 ネットゲームではゲーム自体にコミュニケーションが組み込まれていることもあるから、そのあたりは慎重に判断する必要があるかもしれない。
これは現代的なゲームの問題ということではない。 将棋ウォーズをやっていても、不正行為をするプレイヤー、嫌がらせ(不利になったときに接続を切って相手を待たせる、トドメの一手を時間ギリギリまで指さないなど)をするプレイヤー、卑猥な言葉を名前にするプレイヤーなどは、私の対戦歴から見ても1割よりは多い。 また、ドラムマニアでも私のランクの低さを罵ってくる人や、プレイスタイルに言いがかりをつけてくるような人もいるし、あまり品の良くない人はゲーム界隈だと何のタイトルでも割といるものだという感覚がある。 (これはどれくらいいるかということをデータで出しているわけではないが、少なくともそうした攻撃性の全くないゲームコミュニティを私は知らない)
もしもゲームがなかったら?
私がもし、一切ゲームをしていなかったら?
もしもゲームがなかったら、私はコンピュータに触ることがないからコンピュータを習得することがない。 もちろん、プログラミングをすることもない。 必然的に学習をすることもないし、初学に触れないことで学校の勉強が嫌いだった私は小学校の勉強に早期に脱落していただろう。
乗り物には関心がなく、車もバイクもただ怖いものだっただろう。
イラストを描くこともなく、絵に対する関心もない。
もちろん、このために小学生のときに仕事をすることもなかった。 楽器をはじめることもなく、よって音楽家になれない。 音楽家になっていなければ稼ぎがないので高校に通っていない。(学費が払えない)
職業的スキルがなにもなく、病弱で、学校にもまともに通えないまま中学校を卒業して社会に放り出されることになり、生きる方法がない。
それ以前に、まず虐待に対抗できる要素がなにもないので、中学を卒業するまで生きていられた可能性はかなり低い。 希望もなにもなく、親が与える世界(つまり、私は親の奴隷として虐げられるだけの存在である)以外はなにも知らないという状態であるから、抵抗しようという気にもならなかっただろう。
もしもゲームがなかったら私は生きていないのは間違いないし、何の能力もなく、何も出来ず、何も知らなかっただろう。
私の場合は色々特殊な事情ではあるが、間違いなくゲームは救いであった。