Harukamy's Memoranda

バーチャルYouTuberのおはなし

まえがき

この記事に関しては、2018年8月に同様の記事を一度書いているのだが、ミスにより未発表のままとなってしまったことを、それ以降の研究成果、及び現状を反映した記事である。 当時はキズナアイ、ミライアカリさん、そしてにじさんじのメンバーといったものを念頭に記述したが、現在はそれと大きく事情が異なっていることから、記事の趣旨もだいぶ変わったものになっている。

具体的には、パーソナリティとアイドルの話を中心としていたのだが、現在は文化圏の混在やペルソナに関する話を含めなくては理解できないものになっていること、 そして文化が腐敗する構造に関しても言及する必要があることが主な違いである。

なお、こうした事情から内容は全文書き直している。

また、相当長期にかけて(執筆期間的に見ても5ヶ月くらい)書いた長文記事であるため、言うべきこと、言いたいことが書ききれていないかもしれない。まとめきれていない部分もあると思うのだが、思いつけば書き足すこととして、キリもないので出すこととした。 ご理解いただけるとありがたい。

はじめに

この記事はバーチャルYouTuber(VTuber, バーチャルライバー)に関する話である。

まず先に断っておくと、私自身はVTuberにあまり興味がなく、好きでもないし日頃見ていないから、VTuberの魅力を語るような内容ではない。 主に文化的及び心理的側面から見た分析である。

VTuberに関する敬称については、私のポリシーに照らし合わせて非常に難しい。[^sar-policy] 私のポリシーとしては「実在の個人、またはそのaliasに対してさん付けをする」であるが、VTuberは「実在の個人なのか」という問題がある。 本記事中では私が認識する限りで、「パーソナリティであるもの」については敬称をつけ、「キャラクタであるもの」(演じているという扱いになっているもの、キャストが「声優」など「中の人」という扱いを受けているもの)、「概念化されており個人ではないもの」(中の人の交代などがある)についてはつけない、とする。わからない場合、それが個人名であればつけている。

また、旧原稿では一節丸々取っていた話をここにまとめにしまうが、キズナアイが「AI」を名乗っていたことは、非常に大きな誤謬を発生したことと、著しい検索ノイズになったことから非常に腹立たしく思っていて、だから私は「VTuber嫌い」という強い立場をとっていた。 だが、この問題は、当人の知名度が上がり、キズナアイを本当にAIだと思っている人がごく少なくなったことと、AIの検索ノイズが別の問題にすり替わったことから、わざわざ長々と語ることではなくなった。 いずれにせよ、私は大嫌いではあるが。

大まかな流れ

黎明に関してはおそらくキズナアイであろうと思う。

キズナアイはActive8という企業による制作であり、当初から商業的なものであった。 ごく初期についてはいろいろ模索もあったようだが、キャラクターデザインに森倉円さん、3Dモデルがトミタケさん、モデル監修はTdaさん(MMDモデルなどで有名な方)というメンバーであることを考えても、商業的な側面が強いように思う。

キズナアイが元祖であるかどうかについては様々な難しい問題をはらむので言及はしないが、少なくとも草分けであることは確かである。 キズナアイ人気がVTuberの大増殖を生むことになる。

2018年5月のねとらぼの記事では3000人に増加し、9月には5000人を突破したとある。 急増は2018年の頭から発生している。

だが、2019年に入ると、キャストの交代、内紛などが発覚し、きな臭い話が増えてきた。 また、VTuber同士の関係性がスキャンダラスに取り上げられることも増えつつある。

やる側の動機と構造

VTuberというのが新規性のあるもののように思えるかもしれないが、実はそんなことは全くなく、従来の流れから非常に納得できるものである。だが、それらは非常に複合的であり、すぐに結びつかない人もいるかもしれない。

由来文化

ちょっとVTuberより前に盛り上がっていたカルチャーを思い出してみよう。

  • 地下アイドル
  • メイドカフェ → 属性バー (属性ガールズバー)
  • Vocaloid
  • ニコニコ動画
  • YouTuber

実はこれらをごっちゃにするとちょうどVTuberの出来上がりである。

地下アイドル / メイドカフェ以降

これは別の研究で書いたことがあるけれど、観点が非常に複雑なので、誤解がないように説明するのはとてもむずかしい。

まず、前提として「女性は女性であることで価値を発生する」という状況がある。 これは、男性による男性の需要及び女性による男性の需要より男性による女性の需要と女性による女性の需要のほうが高い、という事情に由来する。

投げ銭システムがあるライブ配信などでは、「女が配信している」というだけでそれなりに金になるのだ。そのハードルは男女で圧倒的な差がある。

言い換えれば、女性はよほど条件が厳しくない限り、ちやほやされる土壌がある。 これは、

  • 女を立てれば稼げる
  • 女を立ててもらえばちやほやされる

という状況があり、アイドルだったり、メイドカフェだったり、ガールズバーだったりキャバクラだったり、というものを「商売にしたい人」と「それをやりたい人」の両方が存在しやすい状況になる。 やりたい側としては前者を含む場合と含まない場合がある。その行動が根本的に戦略的かどうかは別問題という感じだ。

もちろん、男性でも同様に成立するのだが、男性の場合は成立する人がごく少数になるので非常にハードルが高い。 考える人であれば相当に戦略的に進める必要があるし、考えない人であればはじかれる可能性が高い。いずれにせよ参入障壁が高い。 社会的に見ても恋愛であれ結婚であれ、少数の男性が多数の女性と交際・結婚している状況だったりするので、根本的に男性のほうが選民である。

このような「女性にとって女性であることは手軽な商売である」というのは今にはじまったことではないのだが、この手法は「禊と不浄」の関係にある。

女性であることを商売にすることは、ある種嫌悪感を催す可能性があることである。 ゆえにこそ多様化したが、それは同時に「女性であることで商売をしなくても女性であることは常にアドバンテージになり、同時に女性であるという付加属性で見られる」という状況を生んだ。 近年の女権主張は前者のアドバンテージを拡大し、付加属性として見ることを許さないという論調が主だが、これは本質的に同一である(付加属性があるからアドバンテージが発生する)ので無理である。

80年代のアイドルブームはこうした特性のせめぎあいであった。 つまり、「性的である」(セクシーである、男性らしい、あるいは女性らしい)ことを武器にするのか、それとも清浄に見せるのか、ということだ。

これ以前における「スター」はどちらかといえば性を超越する魅力があると主張されることが多かった。つまり、男女問わずより選民的であった。 これ即ち「性的であることがその魅力の厳選であるわけではない」ということである。 だが、80年代のアイドルはどちらかといえばよりセクシーな人物がフィーチャーされる傾向があった。つまり、「性的であることが魅力なのではなく、性的な魅力が著しいから魅力なのである」ということである。 このとき、女性はどちらかといえば性的な要素は抑えめの傾向にあったから、男性のほうがよりセクシーな人物をセクシーに演出していた。

この後、女性のセクシーに関してはグラビアアイドルという形でより直接的な方向が主となり、男性のセクシーに関してはビジュアル系バンドなどという形で少し特殊な形になる。 この過程で、男性のセクシーに関してはそもそも評価が曖昧になり、それが道徳的かどうかという議論から外されるようになった一方で、女性のセクシーに対してはより嫌悪を表明されることが増えていった。

そして、地下アイドルの時代が来る。この頃には男性のセクシーというのは極めて選民が進んでしまっており、もはや一般性がないのだが、女性のほうは特別な要素を前提とせずにアピアランスを確保できるため、「選出して演出さえすれば良い」という面がある。

こうしたことには男女問わず、「何を売りにするか」という問題がある。たとえセクシーでなかったとしてもだ。 一般的にはパフォーマンスであると考えられる。スポーツ選手であれ、芸術家であれ、売りになるのはパフォーマンスなのだが、これが唯一ではない。

セクシーであるからこそというのであればセックスアピールもある。肌を露出したり、男性であれば力強さをアピールしたり、女性であれば可愛らしさをアピールしたりだ。 だが、これは一般には安直だと見られるし、批判も浴びやすい。

そこで地下アイドルで主力とされた要素は「接待」である。

当たり前だが、これらはすべて備える場合のほうが多い。スポーツ選手でも(自身の魅力の補強ではなく、その競技の振興のためだろうが)ファンサービスという接待が発生するし、スポーツ選手の鍛え抜かれた肉体は必然的にセックスアピールになる。 だが当然ながら、その比重はといえば圧倒的にパフォーマンスに重きが置かれ、接待やセックスアピールがなくなったからといってその選手の魅力が失われるわけではない。

地下アイドルは「女性は必然的に売れる」という点を拾って商売にしている以上、どうしてもレベルの高いパフォーマンスは実現しづらい。 当事者は大概に「厳しいレッスンで素晴らしいパフォーマンスを実現している」と思っていたりするのだが、現実はそう甘くない。練習した程度でそれそのもので食べていけるほどのパフォーマンスを獲得できるという前提そのものが自身にパフォーマンスがないことの証明になってしまっている。 そもそもパフォーマンスは相対的であり、「人と比べて著しく優れている」という前提がなければ成立しない。それは才能も努力も、比較するに値しないほどに秀でていなければなしえないのだ。

そのようなパフォーマンスを実現しようとすると、極めて稀な逸材を見つける必要があり、必然的にハードルは高く、このようなビジネスには向かない。 これは「流れにのってすばやく始めて、いいタイミングで切り捨てる」ビジネスなのだ。

そして、より安易に集客、集金する方法として接待に力を入れることになった。 また、直接的に接待を課金制にすることでより集金力を上げた。

セックスアピールを下地にして接待によってコンテンツの集客集金力を確保する、という意味ではメイド喫茶からはじまる流れも同様である。あくまで形態が違うだけの話だ。 これはあくまでその方向に進んだものの話であり、メイドカフェの中には接待要素を今以て入れていないものもあるから、それはこの説明の中に含まれない。 もちろん、地下アイドルでも接待要素のないものについては同様である。

Vocaloid

Vocaloid文化は、これはこれで思惑が複雑に絡んだものだった。

音楽制作ソフトに声優を持ち込んだクリプトンフューチャーメディアの功罪という感じもするが、ここでは文化の話なので音楽制作としての本質的な話はよそに置く。

確立された設定がないヒロイン、というのは2ちゃんねるの文化を色濃く敬称するニコニコ動画を含め、その両者にとっては「大好物」であったということだ。 ビジュアルがキャッチーであったことは重要な要素だが、ニコニコ動画のヒット文化を見るに、「使いやすさ」が重要なのであり、例えば「声がよかった」「合成とは思えなかった」などの品質的事情はあまり関係ない。

2ちゃんねるにはもともと創作小説や自作楽曲を上げたがるアマチュアクリエーターが多くいた。そして、これらは多くの場合オタクであり、 人口が多い割に「オタクに偏っている」という環境であった。また、ニコニコ動画のほうがより若年層が多かった。

これらの文化の特徴として、「リスペクトが薄い」というのがある。 権利だけでなく、原作を尊重するという意識は非常に希薄で、より破壊的な作品、刺激的な作品が好まれるという環境があった。 これは、原作に対して冒涜的であることが少なくない同人界と比べても顕著である。

そして、「オタククリエーター」におもちゃが与えられた形だ。 これは人気が出てからは思惑は二分されることになるが、そのあたりは省略して良いだろう。 いずれにせよ、「典拠のない存在を自分たちで作る」という新しい遊び(過去にない規模での遊び)に目覚めることになる。

ファン側から見れば、ここで重要なのはこのような「非本質であるものを嗜むことに慣れた」ということである。 初音ミクはあくまでもコンテンツであり、中の人というのは、(もちろん声素材の人はいるが)存在していない。 これによってクリエーターがフィーチャーされるようになったという側面もあるし、キャラクターの声優が話題になり、声だけでやっている人がいれば顔出しを求める、といった「より本質を要求する」という流れとは別のものが登場したわけである1

この文化の中で視覚的には絵や3Dモデルであることにもなれた。 ゲームやアニメで慣れていたとも言えるが、それらは“作中の”という話である。 初音ミクの場合、それをあたかも存在するように取り扱う文化となったために、「バーチャルキャラクター」(=存在する人物として扱える)となる。 結果的に作中の(実在しない)キャラクターという概念と、実在する人物という概念が曖昧になった。オタクにはドラマなどで「実在の人物に見えるがそれはキャラクターである」という状態にあまり慣れてない人も多かったので、大きな変革である。

ニコニコ動画

ニコニコ動画で話すべき要素は大きくわけて2つある。

ひとつは「生主」である。

前述のとおり女性であることでコンテンツを成立しうる以上、女性であれば配信するだけで承認欲求を満たすことができる。 これは(程度は極めて幅広いが)セックスアピールを主体としたコンテンツ手法であり、場合によっては接待も含むが、それは一般的ではない。

セックスアピールを主体とした、と言ってしまったが、それは必ずしも真であるわけではなかった。 コンテンツバリューをそれ以外で成立させることも普通に考えられたのだが、こちらの場合はYouTuberの流れになる。 ここで話題にしている生主は「さしたるコンテンツがなかったとしても、女性が喋っているというだけでコンテンツが成立する」という流れの話だ。

これについてはアマチュアの参入が簡単になったという話になるが、特別なアピアランスを持つ人(例えばモデルとか)も同様の流れというのはあって、 こちらは運営からの(集客を狙った)インセンティブを払っての配信というのがあったりして、Twitchであったりとか、SHOWROOM, Live.me, MixCahnnel, 17Liveなどたくさんある。 この流れで最先端にあるのがTikTokだけど、TikTokの話はしない。こちらの方向性は総じて中国産のものが強い。

もうひとつの要素はパフォーマーである。 主には音楽系だが、コピー、あるいはカバーや、振り付けを行って様々な楽曲を踊るといった「(歌って|踊って|弾いて|叩いて)みた」動画は非常に大きなコンテンツとなった。 この場合、顔は伏せる場合も多く、従来にはないスタイルで行われた。

YouTuber

VTuberが流行るより前からYouTuberはずいぶん話題であった。

ニコニコ動画と大きく違うのは、「女であることは付加的なアピアランスになるが、女であることでコンテンツを成立しづらい」ということである。 ニコニコ同様の成功を見込んで「女であること」を全面的に出して活動していたYouTuberというのも結構いるのだが、それは多くがお寒い結果に終わっている。 YouTubeではコンテンツのない動画というのは厳しいのだ。

一方でコンテンツさえあれば女としてのセックスアピールを加味したことで非常に人気になったチャンネル、というのも少なからず存在している。 つまり、女であることがYouTubeで有利な事情にならないわけではなく、コンテンツは必須であるということなのである。

そうしたYouTubeで生計を立てようというYouTuber志望者はとても多いが、その中で一大勢力となっているのが「ゲーム実況者」である。

実はYouTubeに動画を投稿すると、YouTubeから動画投稿に関するアドバイスが表示される。 それは、自分が詳しい、コンスタントに投稿できるネタを投稿すべきであるという内容で、その上でコンスタントに投稿しつづけることこそが大事だ、という内容だ。

それに照らせば、ゲーム動画というのはゲームをプレイするだけでネタができて、人気のタイトルなら視聴も狙いやすい、実際パフォーマンス動画なんかよりもはるかに簡単に伸びるカテゴリだったりするので、非常にお手軽で数が多いのも納得である。

女性とライブストリーミング

このあたりのことはかなり難しく複雑であり、理解するのは大変に難しく、本当に理解している人はそうは多くないのではないだろうか。

ライブストリーミングの本質的な要素は複合であり、それ以前にあったいくつかの要素がまぜこぜに認識されている。 例えば「ゲーム配信の」などといった形でジャンル分けされているが、スーパープレイなどプレイ自体が魅力的なもの、e-sportのようなイベント性のあるもの、TASなど特殊なゲームプレイによるコンテンツ、著名人によるゲームプレイ、ゲームプレイそのものを面白く演出する実況、番組コンテンツの一部としてのゲームなど様々なものがあり、それらを一緒くたにすることは正しい理解につながらない。

だが、ここで重要になるのはライチャ(ライブチャット)である。 恐らく誤解を持っている人が多いと思うのだが、ライチャは決してイコール性的行為の配信を意味するわけではない。さらにいえば、露出があると決まっているわけではない。 ライチャの伝統的なことを言えば、同一サービス中に「露出もしない配信者がいる」というケースが多い。(もちろん、そのような人は一切いないサービスもある)2

また、ライチャに関してもちょっと方向性の違う2種類がある。 「配信として配信される」ものと、「垂れ流す」ものだ。 前者は基本的にオープン枠でおしゃべりをし、人数制限もあったりする(多くは1名だけになる)形でより重課金としてより性的な配信を行うものであり、後者は女性の生活風景を覗き見ることが主である。 (後者のライチャに関しては男性配信者の存在を私は知らない)

これらとニコニコ動画などの「女性生主」ともに求められているのが、「ローカルな知名度」と「可愛さ」である。 重要なのは、「自分が発見した」「自分のお気に入りの」女である、という状況であり、「誰もが知っている有名な女」というのはむしろ好ましくないと考えられたわけだ。

このあたりをうまく踏まえていたのがSHOWROOMとLive.meだと思う。 SHOWROOMに関しては一般ユーザーが配信できない、著名人向けの配信プラットフォームだったのだが、そのハードルは割と低かった。 だから、レースクイーンやYouTuberなどの「ファンが1万人前後」というレベルの人を積極的に取り込んだ。 レースクイーンの獲得に関してはLive.meもかなり動いたようで、「マイナーだけれども綺麗/かわいいし、人気のある女性」を獲得するための事務所との契約争いがあったようだ。

ここらへんのことを考えると、ヤプログ(GMO)がamebloへの対抗策としてレプロを抱えたことを思い出す。 もっとも、これに関しては根本的に人気のある、ファンが多い人のほうが明らかに有利であった。

一方、SNSやライブストリーミングに関しては、必ずしもそのような効果を発揮しない。 なにより大きいのは、ブログがただ「見られること」によって成立するのに対して、SNSやライブストリーミングには双方向性があり、それによってサービスの利用が活発化する必要があった。 だから、ただ人気のある人がちょこっとなにかやれば金言有り難しと人が集うみたいな話ではなくて、それで集まってくるのはファンだけだから意味がない、という話になるのだ。

これは、男性の配信に関してもファン以外が集まりにくいので、こうした性質を活かすことは難しかった。 だが、「見目麗しい女性には男どもが寄ってくる」という構図を活かしてサービスを活発化させることができたのだ。 これの大きなポイントは、「見目麗しい女性が配信していることが多く、そうでなくとも女の子の配信がある」という状況を作り出すことで、チャンネルホッピングを狙うことができるのだ。

まぁ、AKBの、人気がトップのメンバーとかの配信であっても、それが日常的に行われるようなことであればまた話は違ったかもしれない。 だが、結局は「ファンにとってのご褒美タイム」以上の意味を見いだせなかったのもあるし、これはAKBがGoogle+とタイアップしていたときも同じような話だった。 あれもほとんど更新されなかった上に、いかにも外向けに用意しましたといった感じだったので、体温を感じなかった。結果として、本当に人気が出なかった。Google+を開くたびにリコメンドされるような状況だったにも関わらずだ。あれは、言ってみればオフィシャルブログの劣化版みたいな感じだったし、このことからも「好きにやらせたほうが面白い」ということは明らかだった。

そもそも、そうした「有名なアイドルのオフィシャルな姿」を見たいのであれば、TVなどで十分満たすことができる。 ライブストリーミングはそれよりもTVなどでは到底放送できないような特別な日常感と卑近さが求められているのであり、過剰な作り込みと演出はマイナスにしかならなかったし、そこに求められているのは「有名であること」ではなかった。

混ざり合う要素

仮想コンテンツファン x アイドル

初音ミクのような仮想コンテンツは「コンテンツが定まっておらず、自分たちで好きに定義できる」というのがポイントである。 「妄想設定好き」という層は昔から結構いて、もちろん初音ミクの場合は「設定を押し付けるな」と怒るべき人が特にいないので全く問題ない。

これが、地下アイドルでも同様のことが発生した。 地下アイドルはキャラクター付けが甘いことが多く、コンテンツとしても確立していない状態でスタートすることが多かった(場合によってはオリジナル曲すらなかったりした)。 このことから、ファン側に「自分たちがアイドルコンテンツを作る」という意識が生まれ、場合によっては強い連帯感という形でプロバイダーが助けられることもあるが、 多くの場合、「同調圧力をかける一部のファン」という存在になったり、ファンやアイドルに対して自分たちが作った世界を守るように強要するというようなことがあり、摩擦を生ずる場合が多い。

まぁ、この問題はアイドル側が、特にファンでもない人に対して自分たちが気づいた世界観や価値観を強要するという事件が多発しており、「アイドルかわいそう」的な話では微塵もないのだが、それは置いておこう。

要は方向性も定まらないような「甘い」コンテンツビジネスは当然ながら従来であれば「コケるしかない」運命だったのだが、「推しを有名にしたい」という、ファンというよりサポーターとなる人たちによってキャラクターをつけられたり、強みを生み出されたりして、それなりに生き残れることが増えた。 これが幸せなことかどうかは別としてではあるが。

ゲーム実況 x 間接人格

YouTubeなどで一般的なゲーム実況というのは基本的にはゲームというコンテンツよりは(もちろん、そのゲームのランカーであるなど、単純にゲームプレイ自体がコンテンツになりうるのだが)プレイヤーの人格による人気の部分が大きかった。

つまり、「ゲーム実況者は芸人であることが求められる」のである。

つまりは、ゲーム実況というコンテンツを使ってはいるものの、実際にはその人間を晒して勝負するというものである。これは難易度もリスクも高い。

これとは異なる流れにあるのが、「ゆっくりゲーム実況」というスタイルや、VOICELOIDなどを使った、「ソフトウェアに喋らせ、そのソフトウェアにまつわるキャラクターがプレイしている体とする」という動画である。

実際には、そのプレイをして、台本を書いて、喋らせている人がいるわけで、 実際に喋っているのはそのキャラクターではなく作者なのだが、キャラクターを前面に立てることでキャラクターを防火壁として使い、作者の人間性から遠ざけることができる。 これは、やわらげるという意味もあるし、攻撃から逃れるという意味もある。

VIPPER x 萌えオタ

少し誤解があるのだが、2ちゃんねるユーザー全体のオタク比率はそんなに高くない。 (現在の5ちゃんねるユーザーについては不明だが、この時点で言えば別にそこまで高くなかった)

ニコニコ動画の場合は2ちゃんねるの中でも偏りのあるVIPというカテゴリ由来のユーザー及び文化が多く、ニコニコ動画のオタク比率はとても高い。ただし、オタクとしてもやや偏りが激しい。 (つまり、ニコニコのオタクが一般的オタク像に当てはまるわけではない)

VIPPERはクリエイティブな性質があり、既存アニメ作品をテーマにした二次創作小説が作られたり、キャラクターを創造したりする力が強い。 しかしその内容にはまた偏りがあり、特にニート、ひきこもりなどの属性が好まれる(親しまれる)ことが多く、それを補完するものとしてアニメやゲームなどへの傾倒が語られることが多い。

初音ミクは最低限の情報とビジュアルしかなく、それでいて(声優による)声があり、なおかつ声を自由に使うことができる、というものであり、まさにVIPPER出身であるニコニコ動画では求められてきたものであるし、そのヒットは必然であったと言える。

萌えオタ x アイドルオタ

一般にコンテンツを受動する二次元オタク(萌えオタ)とアクティブで女性への意欲の強いアイドルオタというのは行動性質は似ていても精神性に割と開きがあり、重なりは弱い。 また、アイドルオタは一般に実在性にこだわるが、萌えオタの場合はそうでもない。

そもそも萌えオタは幅がすごくあるのだ。 コンテンツを好む場合はそれなりに実在性にこだわる傾向がある。 この違いは「キャラクターを独立した人格のように扱う方向か、声優や作画者、原作者などを気にするか」というどちらに属するかでおおよそ大分することができる。

実在性にこだわらないというのは、言ってみれば「本来のそのキャラクターがどうあるか」ということへの執着が弱いので、二次創作などによって追加されたアンオフィシャルな設定や属性をそのキャラクターであると解釈したり、さらにそこに設定や属性を追加することに抵抗を感じないということであるし、既に存在するキャラクターに対して設定を行う(場合によってはもともとあった設定をオーバーライドする)ことにも抵抗がないということである。

あまりアクティブでない萌えオタ3の場合、ニートなどと文化圏的に近く、あまり対人関係が得意でなくネット弁慶である、という傾向が強い。そのため、非偶像的なアイドルというのはあまりこのタイプにとっては相性がいいとは言えない。なぜならば、「表面的な対応を向けてくる見目麗しい女性」は怖いからだ。

これに関しては強い、弱いという表現がされることがある。これだと二極性に見えてよくはないのだが、女性に積極的に声をかけたり、セクハラしたり、あるいはキャバクラなどを好むタイプを強い、女性に対して怯えるタイプを弱いというふうに表現する。

このことからすれば、接点を持つことができるアイドルに対してがっつくタイプというのはどちらかといえば強いほうだ。またそのようなアクティビティを持っている場合、引きこもる傾向は弱い(遊び歩いているかもしれないから就業とはあまり密接な関係がないが)。

というわけで、おおよそグラデーション状になっている萌えオタのはしっこのほうの属性がアイドルオタと一部かぶっているに過ぎない、という話なのだが、話を複雑にするものがある。 それがメイド喫茶である。

メイド喫茶自体は萌文化に属することになっているが、じゃあ二次元オタがみんないわゆるメイド喫茶の萌え萌えキュンが好きかというとそんなことは全くない。さらにいえば、メイド喫茶の人がみんな二次元オタかというとそんなこともない。言葉で説明するよりも図にしたほうが早いだろう。(ほんとに概念を簡略化した図だが)

属性の概念図

なお、繰り返すが、これはデータの表現ではなく、言わんとしている概念を図にしたものである。

ただ、これは「アイドルやメイド喫茶のキャストに対して設定や属性を追加する」ということを行う土壌が存在することを意味する。

YouTube x 生主

ニコニコからYouTubeへの移住は継続的に進んでいるが、結果として「生主の移行」というのも発生した。

ただし、YouTubeはニコニコよりも厳格であり、なおかつコンテンツがない「ただの女」ではあまり見向きもされないという問題があり、実際のところYouTubeへの進出はかなりの割合で失敗に終わり、ライブチャットアプリに移行したというのが現実である。

一方、コンテンツがある限り女性有利な傾向はあまり変わらない。 それでもコンテンツ優位なので、女性であることに甘んじているとそこまで伸びない(例外もあるが)。

つまり、ヒットコンテンツ的にみればニコニコ動画とYouTubeで非常に大きな差があり、結果的に文化的差異にもなっている。そして、「人物」が重視されるライブストリーミングサービスと比べるとさらに大きな開きがあるということである。

基本形のVTuber

そもそもYouTuberというのを仮の姿でやるのがVTuberの発想であり、この場合間接人格であるという前提も特にない。

つまりは、この場合ほぼ単純に「顔出ししない」という手段として「違う外見を用意する」というのがVTuberである。 virtual YouTuber略してVTuberなのだが、実のところvirtualである要素が特になく、どちらかというとactual YouTuberである。

最近はYouTubeではないからバーチャルライバーと呼ぶとか、でもライブもやってないとかそんなことで用語と語義が迷走しているようだが、virtualのほうは何がvirtualなのかって話にはならないのだろうか。

それはともかく、YouTuberはそもそもコンテンツの提供と、「おもしろおかしくやる」ことが核になっており、つまりはYouTuberは芸人なのである。

別の見方をすると、YouTube動画というのは「番組である」ということができる。 番組というのは作品的にしっかり作り込まれ、編集されたものもあれば、ライブ感覚のものや実際にライブなものもある。 だが、いずれにせよ、コンセプトがあり、コンテンツがあることを前提にしている。

ニコニコ動画もある意味で番組であるのだが、例えば替え歌などは番組としてコンテンツたるものというよりは、学校でやるギャグのようなものに近い。コンテンツに重きを置かれるかどうかにおいて少し差がある。

そして、コンテンツを提供しているわけではないライブストリーミングとはかなりの開きがある。YouTubeライブで人気のあるものは「ライブ番組」である傾向が強いから、より開きがあるのだ。

もちろん、YouTubeには(そしてニコニコ動画にも)教養番組のようなものはあるし、技芸を披露する番組もある。 だが、そうしたものはどうしても「コンテンツ難産」に陥る。だからこそ、そこにあるものを面白おかしくする芸人スタイルは強く、相性も良い。

芸人スタイルの番組においては、主コンテンツは題材ではなく出演者である、という点も大きいだろう。 チャンネル登録、固定ファンの獲得という観点からすると、コンテンツ主体よりは人に対するファンのほうがずっとつきやすい。それに、コンテンツそのものが競合したとしても独自の魅力あるコンテンツを発信できる、という点も重要だ。

別の言い方をすれば、芸人スタイルにおける番組で人気を獲得するためには、自身が魅力的なキャラクターとなって、その魅力を引き出す必要がある。現在はYouTuberのプロダクションなどもあるが、基本的には「自分を魅力的に見せるセルフプロデュース能力」が求められたわけだ。

その意味で、VTuberは下駄を履いた状態になっている。 実在性に対して曖昧な解釈をするオタクがファンにつくことによって、外見的な良さ(しかもそれは単なるデータだ)があればある程度の集客が可能で、さらに自分でしゃべらず合成音声を使う、というようなケースもある。

とはいえ、その人の魅力を引き出さなければ人気は高まっていかない。そうなると、やはり「VTuberも芸人であったほうがいい」ということになる。だが、派手なリアクションや顔芸などができる通常のYouTuberと比べると芸人スタイルをやるにはVTuberにはいささか制約が厳しい。

そこで登場してきたのがパーソナリティスタイルである。

ラジオというメディアは、もう若い人には縁遠いものになってしまっているかと思う。 これを読んでいる人にも「ラジオなんてほぼほぼ聴いたこと無い」という人も少なくないのではないだろうか。 そこで、ラジオの話、ラジオパーソナリティの話をまずしよう。

ラジオは番組ではあるものの、基本的には生放送が多い。 TVのようにコンテンツ的に練られたものよりも「ライブなもの」が多く、厳密な台本はないことが多い。 一般的なスタイルは、番組内にコーナーがあり、そのコーナーコンセプトに従って時間で進行する、というものである。 リスナーからの手紙やメールを読んだり、それに反応するようなコーナーも多いから、厳密な台本はそもそも用意することが困難でもある。

つまりは「時間で区切られたアドリブ」なのだが、そうなるとラジオパーソナリティの人柄というのが番組に大きく影響してくる。 ラジオパーソナリティの交代ということはそこまでよくあることではなく、パーソナリティ交代になると番組自体が変更されることが多い。番組そのものは維持したままラジオパーソナリティが交代になると、それによって人気が大きく増減するようなこともある。

AMでは有名人がやるようなものだと番組にパーソナリティの名前が入るようなケースも多いが、そうでなかったとしても番組はパーソナリティありきになるのが普通だ。

だが、コンセプトは決まっていて、ちゃんと番組として作り上げなければならない。 そのため、まぁアイドルなどがやる場合は例外もあるのだが、基本的には単にその人が素で番組を進行するのではなく、「ラジオ上のキャラクター」を確立して進行することになる。

ラジオパーソナリティが本名かどうかという点はちょっと微妙であり、プロのパーソナリティに関しては芸名であることが多いが、アナウンサーなどがパーソナリティを務める場合は普通本名である。 では特に本名である場合は明確にパーソナリティは「その人である」ということになるのだが、通常ラジオパーソナリティは自然体ではあるが完全に素であるかというとそうではない。 これは、芸人のTVで見る姿が芸人の私生活のテンションと同じかどうか、という話と同じようなものだ。

その人自身から生まれた自然体のキャラクターを自身で演じる、それがパーソナリティである。

プロフェッショナルなパーソナリティとして重要なのは一貫性だ。ラジオパーソナリティが私生活の愚痴を番組内で言ったら違和感があるだろう。それは演者として適切な振る舞いではないからだ。また、あるリスナーの手紙には親しげに反応し、あるリスナーの手紙には興味なさそうに読み上げる、となるとやはりラジオ番組としては好まれないし、苦情も来るだろう。

番組を構成する演者として一貫して適切な振る舞いをする。なおかつ、その人のキャラクター性の一貫性を保つ。 これが、パーソナリティだ。

そのような、その人自身のキャラクターをみせつつ、VTuberとしてのキャラクターを表現するという点で、パーソナリティスタイルは適切であった。

ペルソナ

パーソナリティというのはその人でありながらその人ではない。 つまりは、仮想人格である、ということができる。

仮想人格というのはそうめずらしいものではない。あなたも会社では社会性フィルタによって仮想人格によって振る舞っているかもしれない。 さらにいえば、あなたはネットの中で普段の自分とは違うキャラクタ性をもって振る舞っているかもしれない。

これは心理学的に言えば適応性の話である。 もともとの言葉の話をするのであれば、人の内的側面と外的側面の乖離の話の上での外的側面をペルソナという。

より一般的には社会性のための人格を指していうが、その場合は原義からそう離れてはいない。 そして、これに対して別の見方をすると、ペルソナというのは他者から見たときに自身を代弁するためのものである、ということができる。

ペルソナはそもそも自身の発信を変換するためにあるわけではなく、自分の外側にある「社会」に対する適応、つまり「他者からどのように見えるか」のためにある。だから、ペルソナは、「他者に対して自身をこうみせようとする自分」であると言えるわけだ。

通常、ペルソナは価値観や心情などを表現する振る舞いにおいて適応を見せるためのものであり、「内面の見せ方である」と言える。だから、化粧や服装などはペルソナには(少なくとも狭義には)当たらない。

ところが、VTuberの場合は話が変わる。外見をまるっと入れ替えてしまうことができるからだ。

さぁ、ここからVTuberの実在性の話になる。 そのVTuberは何があればそのVTuber足り得るのだろうか。 外見か。運営者か。あるいは中の人か。なにがあればそのVTuberたり得て、なにがなくなればそのVTuberたり得なくなるのだろうか。

普通に考えればそれは「合計値である」と考えることができる。 つまり、そのVTuberとして活動している実在の人物の人格がVTuberとしての振る舞いというペルソナをかぶっているのと同様に、外見から受ける印象(もちろん集客性というのもあるが、それ以外も含めて)も自分が見せたい形にすることができる。

これは、新たなるペルソナとして機能するものであり、より広く「適応した姿を見せることができるように」なったし、ある意味では「より自分が望む自分になれるようになった」と見ることもできる。

「中の人」「声優」という概念

当初、どちらかといえばパーソナリティ色の強かったVTuberだが、やがて「中の人」「声優」という表現がされるようになった。

前述したように本来的にVTuberというのはペルソナとなっていたはずである。 ところが、ここまで述べてきた、YouTuberやライブストリーミングにおけるタレント性といったことを無視して、単純に萌え絵(あるいは萌え3Dモデル)によるビジュアルと台本を用意して、台本を読ませるスタイルの動画を「VTuber」と呼ぶ参入が大きく増えたということが挙げられる。

この場合、確かにそのVTuberを構成する実在の人物は「声優」である。

ところが、そのような区別なく、VTuberを構成する実在の人物を「中の人」「声優」と呼ぶようになったのが問題だ。 これは、ファンもVTuberがどういうものかをきちんと認識できておらず、その違いが曖昧に捉えられているという問題である。

これが盛んに言われるようになったのが、運営会社が演者を解雇して交代させる、といったことが頻発し、「声優の名前が出ておらず、VTuberのブランドを運営が保持しているのは声優に対して著しく不利益である」という言説によってだが、これは「VTuberとはなにか」という点において正しく捉えることができず、なおかつVTuberのパーソナリティ、タレント性が軽視されるという崩壊の音である。

これがおかしい点を述べよう。

私はVTuberの動画はほとんど観ていないが、時々静凛さんの動画を観ている。 どう考えても、静凛さんがにじさんじを外れたとしてもそれは静凛さんだと認識されるだろうが、ビジュアルを維持して演者交代があったならばそれは「静凛さんである」という認識がされることはないのではないだろうか。

文化的腐敗

人は易きに流れるという問題がある。

基本的にはコンテンツを作るというのは労力もかかるし、難しい。 そもそもコンテンツの構築というのは技芸なのである。

良質なコンテンツを作ろうとすれば必然的に日々の努力というものが欠かせず、長寿な人気コンテンツというのは少なくともそれなりにコンテンツを磨くための労力が注がれ、洗練されている。

典型的なものといえば、チャンネル登録者数300万人を誇る「圧倒的不審者の極み!」さんであろう。 彼の動画は100均のアイテムを加工したり、(今は削除されてしまったようだが)おいしいアイスクリームを作ったり、お風呂場に突っ張り棒をかけたりしていた頃から観ているが、人気が出始めてからは特に基本的な技術を磨いているだけでなく、初期は曖昧な知識や未熟な技術を用いてコンテンツの主題を達成していたのだが、最近は動画に出す時点で科学的知識や加工技術なども非常に高い状態でスタートしている。一朝一夕に身につくようなものではないため、明らかに動画にするまでに相当な訓練を積んでいる。 さらに、非常に高度な機材をどんどん追加しており、その機材の利用に関してもしっかりと訓練しているようだ。 そして、それらを使ってよりクオリティの高い動画を実現するようにしている。

実際にコンテンツ制作をしてみればわかると思うのだが、ネタ出しからして大変だし、動画のクオリティになるように訓練するのも、編集するのもものすごく時間もかかるし、とりかかりからして大変である。

では楽なのは何かといえば、「自身が普段どおりにすること」である。 だから、その点から考えればライブチャットは楽だし、キャバクラや風俗なども楽だ。 容易かどうかはさておき、安易ではある。結局は努力と労力から逃れられないかもしれないが、だとしても前提として誰よりも労力を払うことを前提にしなくて済むのだ。

そして、その安易さは文化的には猛毒である。

基本的に文化というのは、熱量によって生まれると考えて良い。 つまり、殊更に熱心な人によって文化が形成されていくのだ。

だが、ポピュラーになるとより多くの人が参入する。 基本的には熱量がある人というのは早期に参加した人であり、まだ芽の出ないうちから熱心に活動した人である。 一方、多くの人はそうではなく、より安易に考える。

安易に考える人が文化の尊重や、当該文化の未来を考え、コンテンツの充実やそのための大いなる努力をしようと考えて参入する、などということは当然ながらない。 安易な人は安易に事を行おうとする。

そして、YouTuberとしての安易さはなにか、といえば、単に自分の素を出すだけ、である。

私はそのような人を見かけたときにはブロックするようにしているのだが、TwitterにおいてVTuberによる他の演者の悪口、愚痴、攻撃的発言、ファンに対する文句や攻撃的発言、ファンに対する要求、あるいはファンですらない、関係のない人に対する攻撃や強制(!)といったものを毎日目にする。 当然ながら非常に不快であり、ジャンルそのものに対する悪印象も増す。

これは、「ブロックしているので同じ人の発言を目にすることはない」という点と、「私自身はVTuberを誰もフォローしていない」という点を踏まえて考えて欲しい。

実際、そのような状況もあって、熱心な人は依然として多い一方で、「疲れた」と感じて離れる人も増えているようだ。 このようなことは様々なメディアでずっと繰り返されてきた。 つまりは、「安易な人が大量に参入することによってメディアあるいはカテゴリ自体が斜陽を迎える」のである。


  1. わかりにくいかもしれない。要は「キャラクター」という偶像ではなく、その声優を求める、声だけの人物に対しては顔出しを求めるなど、「手の届く存在になることを要求する」というのが恒常化していたのである。それに対して、初音ミクのコンテンツは偶像をより確固たる偶像たらしめる方向に進んでいる。↩︎

  2. もっとも、実際にライチャについて私が逐一確認しているわけではないから、「しない」と言っている人も実はカメラ前で着替えたり、性的なことをしたりしているのかも知れない。そのあたりはわからない。↩︎

  3. 根暗オタクと表現することもあるが、この言葉が必ずしもこの属性とイコールで表現されるわけではないから誤解を招きやすいかもしれない。↩︎

Wrote on:
2020-02-23

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