また燃えそうな話になってしまうけれども、別に挑発したいわけではない。
歴史上の差別認識
まず、前提の認識なのだけれども、「歴史上ずっと女性が虐げられてきた」といったような認識は、非常に正しくない。 多くの場合、その論拠は男女の取り扱いの差異(例えば選挙権)などに求めるのだが、それは単純に「男女を明確に区別していた」と理解したほうがいい。明文化されたものであれ、なかれ女性が許されて男性に許されなかったものも非常に多い。
江戸時代の江戸においては単純に男女比率の問題から女性が非常に強かった、ということが知られている。江戸時代の各地方における取り扱いはあまり情報がないのだが、おそらく江戸のようによ良くかったと思われる。これに類する問題はこのあと言及する。
近代・現代日本において女性がひどく差別される事態になったのはほぼ、昭和に入ってからのしばらくの間だと思って良い。1970年代の書物などを読むと女性は非常に抑制的であることを良しとするものであるため結構差別的なのだが、これが男性によるものなのかは結構疑問だ。 むしろ、そういう風潮だったという理解のほうが正しいと思う。男性が女性を軽んじ、女性も女性に傅くよう求めるようなだ。 こうした風潮は急激に解消され、バブル期には「女性は強いことがステータス」と完全に逆転し、挙句には女性は複数の男性と交際することや、男性を(単純に金目的などで)使役することが社会的に是認されさえした。男性側が納得していたにしても、その取り扱いは非常に差別的である。
そもそも根本的に立場は女性のほうが強いのであり、もし同一として扱うことが成立したとして、その場合は圧倒的に女性の立場が強くなり、平等にはならなかろう。 どこでも常に見かける光景ではあるが、例えばチャットサイトで男女同数が接続する状態を維持しても(登録制にしてルーム作者数及びチャンネル接続者数を同一にするようにし、それを超過する者をマッチングされないフローティング状態のままブロックする。必然的に「男性は接続待ちが出て、女性の人数分しか男性は参加できない」という状態になる。そもそもこの結果に必ずなる時点で…)女性作成のルームが空室のままになることは稀であり、一方男性の満室率が30%を越えることはまずない。
つまり、男性は女性に群がるのであり、女性は常に選ぶ側にあり優位に立つことになる。制度的な云々の問題ではなく、個々の立場を見れば(ある意味生物的には)通常女性が優位にあると考えて良いだろう。 通常、といっているのは、魅力的な男性に女性が群がり男性側の意のままという関係性が生じることも稀にあるからだ。ただ、ありふれ度合いでいえば圧倒的な差がある。
ちなみに、私は女性の中に男性私だけという環境は散々経験したが、尊ばれるよりは疎外されてきた。
言ってみれば、男性のほうが一般に女性が好きだし、下心がある結果競争率が上がるので弱い、ということになる。そもそも、浮気する割合も女性のほうが高いのだし、離婚を希望するのも女性側が圧倒的に多いのだし、女性は気に入らなければ捨てれば良いという感覚に対し、男性側はそれをリスクとしてつなぎとめなければならないという感覚を持つのだから、その時点で圧倒的に女性優位だ。 この関係はよほどの数の不均衡でも生じない限りは崩れないと思われるので(いや、それでも崩れないかもしれない)個別的に考えれば例え女性の人権を完全に無視したような法律にしたところで、相当数の女性(過半数とは言わないが)は男性に対して有利なままになるのではないか。これはデータに基づく感覚にすぎないが。
だが、そうならないケースもある。そうした状況が女性を虐げることによって実現されるケースだ。 もちろんこれとて女性が男性を虐げることにより意のままとする環境が生じれば上記相対によりよりひどいことになってしまうのだが、歴史と現実においてそのケースは稀であり、一方で女性の「人権」ではなく「人格」が無視されることは今なおごく普通に存在している。
典型的なのが紛争地帯における問題だ。 その場合、女性が戦利品になる可能性が高く、女性に意向に基づいて決められるという前提が失われてしまうため、この優位は消滅する。こうなると後述する抑制のない状態において取り扱われるためひどいことになる。
同様に、そもそもそうした認識(女性が同じく人であり、尊重されるべきという認識、あるいは女性が貴重であるという認識)が成立していない場合も非常にひどい扱いがなされることになる。 特に貧困国で女性が奴隷のように扱われるケースがあることに起因する。
そして、日本の近代における地方の問題というのはこの問題なのである。女性の人格を尊重しない歴史を持っている地方は多く、それは現代においても近年まで普通に存在していたという。いや、実は未だに存在しているのかもしれない。
差別とは?
だが、これは明らかに差別の問題ではない。
そもそも差別とは何かということを考えて欲しい。 差別というのは彼我が異なることの認識である。 しかし、人権主義者は「差別ではなく区別」と言うことを好むようであるから、ここではそれに倣い、差別は彼我の対照において彼を低く取り扱うことであると定義しよう。
では、先の問題は女性を「低く見ているから」行われるのか?
そんなわけがない。低く見ているのであればそんなことはできない。 畜生と交わろうとする人間は稀だし、むしろ「卑しい」と感じる存在は遠ざけようとするほうが道理だ。 そして、ペットを愛玩するように、自分よりも弱い、あるいは小さいという認識は、虐げるほうが特殊であり、尊ぶほうが自然である。
わざわざ意識して(つまりか弱いから、あるいは下賤だから)虐げるのであれば男性が皆リョナ趣味だというこれまた差別的な目で見ているだけの話になる。 これは、「男はみんな猫や犬を虐待しているのだろう」みたいな話と同じだからだ。
例えリョナ趣味があったとしても、実際に虐げるのは結構なエネルギーがいる。恒常的に虐げられるわけではない。(男女問わず)DV癖がある人でも、世六時中休みなく虐げられる人は稀である。 しかし、地域環境において大多数の人が常に虐げる状況というのが存在するわけであり、それは嗜好の問題ではないし、別に蔑んでいるからという問題ではない。
要は、女性の人格を認識していないのである。
これは差別ではない。理解であり、価値観である。
私達の多くは、鳥や豚や牛や魚を食べる。意識して考えないようにしている人もいるだろうが、基本的にはそこに意思する意思や生命や思惟や、生きる権利や生命の選択権などを認めていないし尊重もしていない。平気で食べられるのは、それらを理解することはないし(意思疎通の術がないので、おそらく今後もないだろう)、意識もしていないからだろう。
慮る程度であれば(罪の意識に苛まれながらも)食べられるかもしれないが、共感するとおそらく食べられない。
だから、虐待(いじめを含む)は共感などない、相手の人格を認識しないが故に生じるのであり、故に深刻に残酷である。
では差別とは何か。前述の定義に基づけば相手を蔑んでいる、あるいは見下しているのである。
それ自体は別に大した問題ではないと思う。別に互いに蔑み見下している人たちなどいくらでもいるだろう。実際に問題が生じるのはそこではない。
例えば健常者が障害者を差別したとしても、健常者100人の中にひとりいる障害者という環境で行うのと、障害者100人の中にいるひとりの健常者が行うのでは問題は全く異なる。これは道徳道義における話ではなく、被害という現実から見た話だ。
結局その問題からいえば「虐げるな」ということに集約されるだろう。
ちなみに、男女同権とは、男女で共通の権利を全て共有することである。
男女同権を望むのであれば、女性専用車両などというのは許されざる差別であるし、離婚時に賠償や養育費支払いを女性も同等に行わなくてはならない。
男女同一は男女の取り扱いにおいて結果同一で区別なく行うという話になる。
男女のトイレを撤廃するのがどうかということを例え差し置いても(例え女性トイレのほうが常に混雑する状況があるとしても)男女のトイレの基数及び箇所数は同一でなければならないということになる。
ちなみに、多くの場合、男女平等と男女同一は対立する。例えば、雇用問題で女性の役員数を男性と同程度にしなければならないというルールは(これが「同等以上」なので、明らかな差別なのだけれど)男女同一を目指すものだが、能力の評価や採用基準などを男女で異なるものにするわけだから男女平等ではない。
なお、男女平等を標榜するのであれば、最低限、専業主夫を肯定し(あるいは専業主婦ともども全否定し)、男性に稼ぎや生活費を求めることを一切しなくてはならない。
女性差別と言いつつ、「女性」差別ではない話
そもそも女性差別と言っていることが「女性」差別だと思っているのであれば、認識が浅い。
女性らしさ、女性なのにと言っているのは何かといえば、「それは男のこと」なのである。
例えば参政権の話にしても、それは女性を入れないということは必然的に男性がそれを「しなければならない」ということになり、また女性の分も責任を果たさねばならないという義務も負っている。
会社役員に男性が多く、女性が入ることが拒絶されていると仮定するならば、面倒でドロドロで重大な責任が伴う役員職は男性が負わねばならないということを意味する。
家事を押し付けられてきた、などという女性もいるが、逆にいえば家事が好きな男性は家事の現場から拒まれてきた。男子厨房に入らずであったわけだし、ずっと家事をして暮らしたいと思ったところで稼げ仕事をしろ責任を果たせと迫られてきたわけであるし、それは「女性が女性らしさを求められ、男性は男性らしさを求められてきた」というだけの話に過ぎる。
ちなみに、かの瀧廉太郎も周囲からは恥とされてきたわけだし(男のくせに音楽をするなぞ、というわけだ)、武士職には料理をするものもあったのだが、やはり公言できない恥ずかしいものであったそうだ。
だから、これは「女性はこう」「男性はこう」と決められ、「らしくあることを求められた」という話であり、女性に限った話ではない。その是正ということに関していえば、男性が女性の領域を許されるようになったのはここ10年がせいぜいなので、はるかに遅く、(それを差別と呼ぶのであれば)男性のほうが差別され続けてきたことになる。
ただし、明らかに問題である差別もある。 例えば、会社勤めにおいてある女性社員とある男性社員を比べた時に、女性社員のほうが追っている責任、仕事内容、仕事量いずれにおいても同等以上であるにも関わらず男性社員よりも待遇が低い、といったケースだ。 もちろん、個別的にみれば男性同士であってもそれは生じているわけで、直ちに男女差別であるということではないのだが、これで明らかに男女間の傾向としてあるという話になると、それは虐げている話になるので、ダメである。
差別解消というよりは、男女の垣根の撤廃が進んだ、というのがここ20年くらいの話ではないだろうか。
現在の「男女平等」の問題点
単純に女性の権利強化を要求しているエゴイスティックさが問題だ。
これは男性を虐げているというだけの問題ではない。本当に男女平等を望む人にとっても破壊的な害悪である。
ちなみに、男性はプリクラコーナーに入ると通報されてしまう。逮捕された事例もあったように思う。これが「男女平等」なのか?
また、従来のような男女の区別に基づいて「らしさ」を求められた中では男性は責任を求められることが多かった。収入の問題においてもだし、妊娠の問題においてもだし、その他数多くの事柄についてもだ。
そのために、男性としてはその責任感とプライドがあった。それを果たさなければならないと考えてきたし、それを求められることを当然としてきた。女性の行為を詰ること多くの人はプライドが許さないから(例え女性からDVを受けているとしても)行わないし、またそれを公言すれば男性の間で蔑まれ汚名返上は困難となるレベルであるため行わなかった。
近年男性がそのプライドを失っている感はあるが、平等を要求するのであれば同等に女性もプライドと責任を持たなければならないのだが、そっちのほうがはるかに追いついていない。
つまり、現状の男女平等要求は女性にとっての利益ですらなく、特定の人達の利益であるという問題なのだ。
だが安心してほしい。今の若い子たちの多くがこのような男女平等を指向していない。どちらかといえば、自由選択として女の子らしく、男らしくありたいと思う方向であり、より柔らかな形で回帰する指向だ。
責任は男性に押し付けて女性は甘えられる世界、男性が守り女性が守られる世界、そういう世界線もありだと思うが。
個人的には
では、ここから私の思いの話。
個人的には、男女平等だの男女同一だの男女同権だのは、かなり嫌なものだと思う。
理由は簡単で、「男女が同じであることを強要されるから」だ。これは、同一性を担保するために同性間においても同じであることを強要されるということを意味する。
それを強制することは、非常に息苦しい世界になる。 なんといっても、あり方を人に、社会に決められてしまうわけだから。
男らしく、女らしく、それはあって良いと思う。基本的には男女は違うものだし、それぞれに得手不得手があるものだ。同じことをするのなら、何も効率が悪く苦痛に感じるほうがやることはない。適したほうがやればいい。
だが、それは基本的な路線でしかない。個別性がそれを凌駕する。家事に適した男性もいるし、戦うのに適した女性もいる。
だから基本路線はただの一般論にとどめておくべきだと思う。特に恋人夫婦間の関係やあり方や役割など、当人間でもっとも良い形、ふたりともが苦痛でなく最も前向きな形を模索すれば良い。
社会的にみれば、男性だから女性だからというのを除外して、個人に帰属する特性で判断すれば良いと思うのだ。
女性が月経によって労働安定性が低いという事実があってマイナスに評価するにしても、そんなもの個人差が大きすぎて、ほとんど影響なく働ける人もいれば、ものすごく影響が出る人もいる。そしてその程度の話は、病気持ちだったり、体が弱かったりするという事情で簡単に覆る。実際、私の稼働率は出勤形式の場合高くても60%には届かない。でも、60%に満たなくても別に生産性が低いわけではない。だから、男女というのは絶対ではないのだ。
だから、ちゃんと個人を見ればいい。個別にみればいい。 垣根や強制はいらないだろう。
尊重せよ。虐げるな。
この問題の本質は至ってシンプルに、結局はそれだけのことではないかな。